※この項目は、全面的に原田常治氏の「古代日本正史」の記述に基づき、管理者が作成記述しています。
まず、大前提として、次の項目にご注目下さい。
- 日本建国の祖は「素佐之男尊」である。
ちなみに、今の日本の神社の80%強が「素佐之男尊」とその一族を祀る神社であることを、皆さんはご存知ですか。
- 勿論、最初は、出雲の国のみ統治していましたが、西暦173年~177年(梁書倭伝に戦争があったことが記載されています)にかけて、三男の「大歳尊」と共に北九州に攻め入り、日向の国(宮崎、鹿児島)まで制圧して、九州を征服しました。
- この時に、日向の国を治めていた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の一人娘が日霊女(卑弥呼)で、日本書紀には「一緒に日の神を生み申し上げた。大日孁貴(おおひるめむち)という。一書に天照大神という。」と書かれています。
原田さんによれば、日霊女が憧れをもって「素佐之男尊」の日向の妻になり、3人の女子を授かったとのことです。厳島神社ほかに祀られている「市杵島姫命」「田心姫命」「湍津姫命」です。
- それはさておき、九州制圧の勢いを駆って、三男「大歳尊」を大和の国(奈良)に派遣しました。その結果、西暦183年に大和を治めていた長髄彦の妹「三炊屋姫」と結婚することで、平和裏に大和を支配下に収めることができました。
- この結果、素佐之男尊のもとで、出雲、日向、大和の三大古代国家がひとつにまとまりました。
- しかし、ほどなく素佐之男尊が西暦184年に62歳で亡くなりました。
- その後は、大国主尊が後を継ぎました。
大国主尊は、素佐之男尊の末娘「須世理姫」と結婚しておりましたので、後継者になりました。その時代の日本人(モンゴリアン)の慣習が、男女関係なく、末子相続であったことによります。
- 大国主尊は、出雲と日向を治めました。大和は、伯父の大歳尊が治めておりましたので、任せていた形でした。
- 日向には、出雲が雪に蓋われる冬の季節に来ていたようで、日霊女と素佐之男との長女「多紀理姫」と結ばれました。大国主政権は西暦184年から西暦215年の31年間の治世でした。彼女は30歳から61歳になるまで、娘婿である大国主政権を支えていたようです。
- ここで、出雲政権の跡取りの問題が生じました。出雲、日向双方に子供がおりましたが、モンゴリアンの末子相続を厳密に判断すれば、日向の男系末子が相続人となることが正当ですが、出雲の長男「武御名方冨尊」が出雲の正当性を盾に異議を唱えていました。そこで、日向は、出雲よりの独立を唱え、小競り合いはありましたが、独立が達成できました。西暦215年のことでした。
- それから5年、西暦220年になり、大和の大歳尊が69歳で亡くなりました。
- 日霊女は、66歳になりましたが、ここで、素佐之男の三男「大歳尊」が亡くなったことで、気を使う存在がいなくなったので、新たな時代に踏み込みました。
- 西暦221年、俗に「出雲国譲り」と称して、末子相続人である「事代主」と「多紀理姫」母子を先頭に立て、出雲に出兵し、出雲の長男「武御名方冨尊」を長野に押し込めました。武御名方冨尊軍は、なかなか手ごわい相手でありましたが、日向三軍の武将のうち2武将「武みかづち尊」「ふつぬしの尊」の精鋭が派遣されていましたので、各地の戦闘で武御名方冨尊軍を圧倒し、長野の諏訪湖畔まで追い詰め、二度と反抗しない旨の誓約をとり、鉾を収めました。
- これで、日向と出雲を、日向の後継者が治めることになりましたが、実質上は、日霊女が、政権を仕切っておりました。
- ここで、大和の状況はどうかというと、大歳尊の死後、末子は幼少の「伊須気依姫」だったので、長男の「宇摩志麻治尊」が代行していました。
- この時点で、日霊女は考えたに違いありません。日霊女の末子「熊野楠日尊」の末子「伊波礼彦」は西暦216年に誕生して、今5歳になっています。大和の国末子「伊須気依姫」は7歳です。素佐之男の孫と日霊女の孫の縁組が整えば、日向、出雲、大和の古代3国が、一緒になり古代王朝としてまとまって、大きな和の国「日本古代王朝」としての「大和国」が成立し、中国大陸に対しても、対等の国家としての対応が可能でないかと考えたのでないかと思います。
- そのためには、事前に、大和国側と、相談しておくことが必要です。その相手は、長男の「宇摩志麻治尊」です。すでに成人しており、相談相手としては問題ありません。日霊女女王の考えは、「宇摩志麻治尊」の父親「大歳尊」の思いと重なり、その実現に協力していくことになりました。
- そのための準備を、進めていきました。まず、2人の孫たちが無事成人することを目標に、周りの環境を整えていきました。また、結婚式の日取りと場所を決めて、その準備を進めなくてはなりません。中国の暦法に則り、即位の年は、直近の「辛酉の年」西暦241年と決め、その準備のために、その4年前、西暦237年には、結納を執り行い、準備に取り掛からなければならないと考えてました。結婚式の準備と、王宮の建設、それを支える施設や街づくりには、4年間でも足りないかもしれませんが、着実に準備は進められました。それが、今話題になっていいる「むくまき」の都市遺跡だと思います。まさに、準備万端の成果のもとに古代王朝が発足してのです。
- その年は、西暦241年「辛酉の年」、日霊女87歳になっていました。神武天皇となった「伊波礼彦」は25歳、「伊須気依姫」は27歳、盛大な結婚式と天皇就任式典となりました。
- 日霊女女王は、古代日本国「大和国」の成立を見届け、西暦247年の年93歳で亡くなりました。古代王朝をまさに一人で纏め上げた大女王、大女傑でした。