日本書紀では、中国の暦法に習い、古代天皇の歴史を創作した結果、紀元前660年の、辛酉の年に即位したことになっている。
同じ辛酉の年であるが、あまりにも年代が離れすぎている。どうしてか。
また、辛酉の年とは、何なのか。
さらに、なぜ辛酉の年でなければならないのか。
それは、中国の漢の時代に流行した予言的学説「讖緯説(しんいせつ)」(災害異変瑞祥天意説)に基づき、歴史を記述しようとしたからです。
「讖緯説」では、七元=420年の間に三変(甲子革令、戊辰革運、辛酉革命の三大変革)があり、さらに、その3倍の21元=1260年を一蔀(ぼう)として、歴史の一つの完結が行われると言われたことによります。
中国では、干支(十干、十二支)が一巡する六十年を一元と言います。日本では還暦と言います。
辛酉革命で天命が革まり(帝王が変わる―天皇が変わる)、
甲子革令で政令が革まり、戊辰革運で運動が革まる。というこです。
ということで、天皇が即位するには、辛酉の年がふさわしいことは、理解いただけると思います。
それでは、なぜ実際の即位年(西暦241年)と日本書紀の即位年(紀元前660年)との間に900年もの差異が生じたのか、さらに言えば、差異を生じさせても日本の政府が作成した正史にそれを記載したのか。
私は、その大本は、聖徳太子にあると思っています。
聖徳太子が活躍されていたころにはすでに、讖緯説は信奉されており、17条憲法、冠位十二階の制が、甲子革令の年に当たる推古天皇12年(西暦604年)に出されました。またこの年には、中国暦法の元嘉暦が採用されました。
日本書紀の製作者は、この説に基づき、推古天皇9年(西暦601年)の辛酉の年を基準年にし、それから一蔀(ぼう)(1260年)を遡った紀元前660年の辛酉の年を即位の年にしたのです。
では何故、紀元前660年まで遡って即位したことにしたか?
それは、世界の歴史を見渡してみて、世界最古の王朝であることを記録し、諸外国、とりわけ中国の正式王朝の秦の始皇帝の即位より古いことを記して、遣隋使を派遣する時の日本の立ち位置を明確にしたかったのではないかと推察しています。隋の皇帝への正式文書に「日出るところの天子、日没するところの天子に書をいたす、恙無きや」としたことで、隋の皇帝を怒らせたほどの聖徳太子の思いは、日本書紀の作成意図に明確に反映したものと思っています。
ちなみに、世界の歴史を展望すると、上記の聖徳太子の思いはより明確になります。
日本国天皇が紀元前660年に即位したことになることで、秦の始皇帝の統一国家成立(紀元前221年)、中国正史「史記」完成(紀元前91年)、孔子生誕(紀元前552年)、仏教の開祖である釈迦生誕(紀元前463年ー中村元説)などより古い時代に日本国が成立したこととなり、古代ギリシャ、ローマ帝国と成立年代で、肩を並べる存在となることができたわけです。世界最古の天皇制という国家元首が今も続いていることになります。
ということで、日本の正式な歴史書である「日本書紀」の記載の即位年月日は、製作者の意図を大事にして、日本の文化の継承として大事に伝えていくことが基本であると思います。
しかしながら、本来の歴史は、考古学の発見も大事にし、歴代天皇陛下の平均的な在位年数を勘案し、西暦241年の辛酉の年に、奈良県纏向遺跡(まきむくいせき)に完成した皇居で神武天皇が即位する式典と結婚式を同時に挙行したことで始まったとするのが、妥当で、正確な日本国の歴史であり、歴代天皇の歴史と施政となると思います。